A5.自分探しのカラクリ(1)

私の青春。自分探しの一人旅。私にとってはカメラ片手に飛行機に飛び乗って向かったイタリア旅。

ブログを書き始めたころ、私の自分探しは成功したんだと思ってた。自分なりの答えも出した、、、、筈だと。

当時の日記を紐解いて、その答えが出てくるのを楽しみに、ブログを書いてきた。

日記は、最後まで書いた。けど肝心の答えが、私の青春の集大成・自分探しの答えが

まだ出てきていない。あれ?まだ答えが見つかっていなかったのだろうか。

徐々に記憶が戻ってくる、私は答えを出さないまま、日本に帰ってきた。それを1っか月という旅行を経験した。それに満足し、納得し、それ自身が答えだと、無理やり蓋をしてきたのことを思い出した。

哀しい哉、素敵な思い出とともに、自分をごまかして生きてきたことも気付かされた。

でも何で答えがでなかったのだろう。私は答えを出さなかったのだろう。

今ならわかる。その理由が。

自分探しに大事ことは、自分探しの始め方だったということを。

そう。自分探しの成功は、どう始めるかで9割決まる。

つまり自分探しとは、答がないものなんだということ。それを最初にわかっているかどうかが大事だったんだ。

やみくもに、自分探しと言って、旅へ出たり、落ち込んだり、明るくしたり発散したり、、

それは雲をつかもうとするのと同じ。もしくは、鶏が先か、卵が先か?論争のような。答えは最初からない。そして、答だけを探しても何も見つからない。

自分探しと言って旅をすることは、ただ格好つけているだけの無目的な贅沢な時間の過ごし方だったんだって20年以上経って気付いた。

それが「自分探し」というものの甘くて、怖い悪魔の果実だったんだ。

事前に将来の夢、やりたいことを持ち合わせていない人間が、ただただ旅へ出るだけで、自分探しの答えなんて見つかるものではなかった。

そもそも自分探しって何ですか?

自分探しの旅なんて、目的がない自由な旅。青春時代の行動の理由付けで聞こえがいい旅。

それだけの話。

自分探しとは何か。それは人ぞれぞれ。

それを自分なりに自分探しの定義をはっきりさせる必要があったんだと思う。

目的なしに見切り発車で、旅へ出ても時間の無駄だった、、、とは言いたくないけど、意味があったかどうかは結果論の偶然を期待するだけの旅だった。

ゴールが何か、何をもって自分探しがコンプリートするのか出口戦略を考えておく必要があったんだ。

つまり、株や投資と同じで、ゴール設定が必要なんです。ゴールがないまま時間をつぶしても、その旅は終われない。なぜならゴールが定まっていないから。

おそらく、自分探しをしながらゴールが見てくるものだと思い込みすぎているんだと思う。

私たちの時間は無限じゃない。欧米の若者のように1年かけてゆっくり世界を回ろうとすれば、それもよいかもしれない。目的ややりたいことを見つけながら、ゴールも固めていきながら旅の終わりを意識しっていうたっぷりの時間があれば、良いんだと思う。

コールラインを定めてないがゆえに、旅での高揚はそのままゴールテープを切ることなく、だらだらと、続いていき、リセットすることもなく、次の高揚に満足しながら、結局はタイムオーバーとなるまで時間を過ごしていく、それでも山あり谷ありの旅は楽しくないわけがなく、最後までゴールすることなく、タイムアップして日本へ帰るしかなかった。

私自身の青春は、ふたを開けたらそういうことだったんだと気づいた。

こんな例えは素敵ではないけど、ギャンブルに似てると思う。終わりの見えない自己満足な戦い。

自分探しから抜け出せなくなる前に、私たちは自分の手で、その足を止めて自身と向き合わなければならない。

私のように残りが少なくなる前に。         つづく。

■私の自分探しの始まりはこちら

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